「失われた50年」とは?
敗戦後の日本は、GHQの指令により飛行機の開発や製造を行うことは禁止されており、さらには航空機に関わる研究や教育、運行までも禁止されていた。日本が独自に研究開発し、初飛行を成功させることができたのは1962年。双発プロペラ機YS-11であった。YS-11の開発には零戦の開発者でもあった堀越二郎も関わり、旅客機としての性能をひたすら追求し、国内はもとより海外へも輸出されたのだが、事業面では莫大な赤字に悩まされ180機で製造を終了。その後50年間は、国産の旅客機が製造されることはなかった。
戦後の日本の航空機産業
国産旅客機の製造は途絶えたものの、ボーイングやエアバスといった大手航空機メーカーの下請けは進化を続けた。その結果、いまでは、ボーイング機の35パーセントは日本企業で製造され、最新の787では構造材の50パーセントが日本の開発した炭素繊維複合材料で作られている。しかも旅客機ではないが、自衛隊向けの航空機製造では実績を積み、独自の超音速機の開発などを行ってきた。だが、自衛隊向けの航空機製造と民間旅客機ではその安全基準を巡って大きな隔たりがある。民間旅客機の製造には安全性を保障するための非常に高い信頼性が求められ、開発には極めて高いマネージメント能力が求められる。このため、YS-11の二の舞を恐れる航空機メーカーは国産旅客機開発のプロジェクトへの動きは鈍かった。
MRJ開発
そんななかで名乗りを上げたのが三菱重工だった。当初は30人から50人という小さな機体の計画であったが、アメリカのエアラインの規制緩和が進むと同時に、地方路線を展開する航空会社が出現してきた状況から、リージョナルジェット機(地域を結ぶ飛行距離の短い機体)の開発へとシフトしていった。しかし、リージョナルジェット機の市場でも参入は後発となるため、ライバル機に対して優位性がなければならない。その打開のためにMRJに導入された新しい技術とは果たしてどのようなものだったのだろうか。「失われた50年」から悲願の成功をおさめたMRJ初飛行の瞬間もドキュメントする。
主な取材先
鈴木真二(東京大学)
鈴木一義(国立科学博物館)
大貫武(宇宙航空研究開発機構)