淡路島で20年ぶりの大発見 松帆銅鐸
弥生時代に造られ、弥生時代の終わりに忽然と姿を消してしまった銅鐸。その謎に満ちた銅鐸は、現在までに500点余りが出土している。その中で、数十年に一度と言われる大発見があった。淡路島の南あわじ市で、7点の銅鐸がまとまって見つかったのだ。
松帆銅鐸と名付けられたその銅鐸は、銅鐸の中に一回り小さな銅鐸が収納された「入れ子」という貴重な状態で発見された。
入れ子の状態のまま、調査をすることは非常に価値があるという。そして、その調査から、過去に例のない大発見があった。そこから見えてきた弥生時代の人々と銅鐸との関わりとは?
時代とともに変わる銅鐸の形
現在までに出土した銅鐸の形状を調べていくと、弥生時代が進むとともに銅鐸の形状が変化していくことが解る。新しい段階になるとより装飾性が高まり、大きさも巨大になっていくのだ。最大のものはなんと137cmの大きさである。
このように銅鐸の形が変化していくとともに、使われ方も変化していったと考えられている。
銅鐸の姿の変化と弥生人の社会の変化はどうつながっているのか?
銅鐸を作る
一方。銅鐸づくりを現代の技術で再現している活動がある。鋳型を作り、溶かした青銅を入れ銅鐸は作られる。当時の銅鐸は厚さ3mm、それは現代の技術をもってしても再現するのは難しいという。
今回、実際に銅鐸を再現制作してもらった。その銅鐸の出来栄えは?そして、そこから見えてきた弥生時代の人々の鋳造技術とは?
兄弟銅鐸
松帆銅鐸からさらに新たな発見があった。
それは、淡路島から出土した松帆銅鐸と、島根県から出土した銅鐸が同范(同じ鋳型から作られたもの)であるとわかったのだ。
およそ400km離れた淡路と島根。弥生時代、途方もなく遠いこの二か所から同范銅鐸が出た意味とは?銅鐸の謎に迫る。
主な取材先
難波 洋三 さん
和田 晴吾 さん
奈良文化財研究所
南あわじ市埋蔵文化財調査事務所
野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)
兵庫県立相生産業高等学校
マツモト産業