敗軍の将、兵を語る
“バイオの雄”として名を轟かせてきた岡山の世界的優良企業「林原」が、突然、会社更生法を申請したのは2011年2月。黒字を計上し続けてきた優良企業に何が起こったのか? 社長急逝が引き起こした混乱と反乱、スキャンダルを境に失速、襲いかかった銀行、弁護士、マスコミと弁済率93パーセントの不可思議な倒産——専務取締役として渦中に身を置いた著者が「不可解な破綻劇」の真実を語る!
著者プロフィール
林原 靖(はやしばら・やすし)
1947年、岡山市生まれ。父・林原一郎、母・英子の四男。兄・紘一、暲の早世で次弟となり、長兄・健と共に林原グループ各社の経営に当たる。岡山大学付属中学、慶應義塾高校、慶應義塾大学商学部卒業。1969年、林原株式会社に入社。1978年、取締役経理部長就任。総務、人事、システム、広報、関連事業、各部長兼務。1985年、株式会社林原など基幹四社の専務取締役に就任。2000年、太陽殖産社長に就任。兼務の本体専務として管理、生産、営業、国際、関連子会社もあわせて管掌。2011年2月、会社破綻ですべての役職を辞任、今日に至る。2015年4月より(非営利)グローバル・リサーチ・アソシエイツ代表(blogs.yahoo.co.jp/gra_yasushi)。現住所:岡山市北区出石町2丁目6番18号。
目次
まえがき 第1章 優良企業・林原の内実- 評価は一転、奈落の底へ
- 林原は水あめの製造からスタートした
- 十年で三五〇億円の借入金を返済
- 深刻な問題は巨額の借入れ
- 黒字が拡大するなかで経営破綻
- 決算報告書の〝瑕瑾〟
- 達成されつつあった悲願
- 突然、訪れた運命の日
- 三代目社長・林原一郎の思い出
- 社長急逝が引き起こした混乱と反乱
- 四人兄弟のうちで残った「できの悪い二人」
- プルランとインターフェロン
- 骨肉の争いを避けるために先手を打つ
- スキャンダルを境に失速したインターフェロン販売
- 一九九八年に着手したリストラ
- 研究開発中心から製造販売力の強化へ
- 穀物商社カーギルとの契約改定に成功する
- 子会社の売却で新工場の建設費を賄う
- 担保にする不動産や株式は残っていなかった
- 裁判外紛争解決手続(ADR)の開始
- 年末年始の休暇を返上して進められたADRの作業
- ADR制度が抱える不備
- メインバンクとサブメインバンクへの非難
- 提示されなかった民事再生法という選択肢
- 第一回全行ミーティングの最中に会社更生法を申請
- 深夜の記者会見と総退陣
- 全額が保護された納入先債権
- 弁護士は公平無比な〝赤ひげ〟ではない
- 「無理筋」への対応策
- 保全管理から更生管財に移行
- 「破綻ビジネス」の果実を分け合う企業
- 三カ月強にわたって行われた第三者委員会の調査
- 死の淵から生還した兄・健
- 八十社に近い企業が名乗りを上げたスポンサー入札
- 住友信託銀行が申し立てた仮差押え
- 一般家庭に対しての動産執行はほとんど実効性がない
- 個人破産に追い込んでやると脅した住信の代理人
- 林原のスポンサーは毎年八〇億円以上の利益を得る
- 長瀬産業が七〇〇億円でスポンサーに選ばれる
- 更生会社から送られてきた巨額の損害賠償請求
- 市場価格より安い金額で自社株を買った中国銀行
- 住友信託銀行と訴訟の応酬
- 戦略として誇大宣伝をした更生管財人
- 九〇%を超えた弁済率
- 「反面取材」と「裏づけ確認取材」を徹底していないNHK
- なぜ林原は突然潰されたのか
- 大山鳴動してネズミ一匹